真言宗豊山派

圓照寺について

圓照寺について
About Enshoji

概要
Overview

当山は、正式な名称を医光山瑠璃光院圓照寺といい、平安末期、関東一帯で起こった「平将門の乱」を平定した伝説の武将、藤原秀郷によって建立されました。

本尊には、奈良時代の名僧、行基菩薩によって手彫りされたと伝えられる薬師如来像が安置されております。
また、昔より桜の御寺として名高く、境内に植えられていた「右衛門桜」は、“江戸の三桜”に数えられ、当時の観光地として賑わったと記録されています。
残念ながら右衛門桜は太平洋戦争の戦火で焼失しましたが、現在も境内中央に咲く枝垂れ桜やたくさんの牡丹などの花々が、皆様をお出迎えしております。

  • 宗派:真言宗 豊山派
  • 山号:医光山
  • 院号:瑠璃光院
  • 本尊:薬師如来
  • 札所:豊島八十八箇所 第八番

圓照寺の成り立ち
History

圓照寺誕生までの足跡を辿っていくと、平安時代、醍醐天皇の治世(897~929)までさかのぼります。

空海の実弟である真雅の弟子であった理源大師(真言宗小野流の開祖)のさらに弟子にあたる貞崇(東寺長者、醍醐寺長者、金剛峯寺座主を歴任した高僧)が、今の北新宿あたりにあった柏木村という村に小さなお堂を建て、そこに行基*が彫った木彫の薬師如来像を安置しました。

*行基は奈良時代の名僧。当時禁止されていた民衆への布教活動や、社会事業に尽力し、東大寺の四聖に数えられる。教科書にも載っています。


まだこの時点ではお寺にはなっていませんが、このお堂が圓照寺のルーツになっていきます。


その後、平安中期となり、圓照寺が誕生する大きな要因となる大事件が起きます。世に有名な 「平将門の乱」 です。

平将門は平氏一族の抗争から、関東一帯に勢力をもち、朝廷に対して、東国の独立を主張し、自らを「新皇」と称したことで、朝廷は激怒します。

朝敵となった将門に対し、朝廷は、藤原秀郷と平貞盛を討伐のため出兵させました。

そして、この藤原秀郷なる人物こそが、 「平将門の乱」を契機に圓照寺を建立することになります。


秀郷一行は将門を討たんと出陣した訳ですが、現在の中野区あたりで、出陣前から痛めていた肘に激痛が走るようになり、大変困ってしまいました。


(余談になりますが、秀郷は、俵藤太という別名でも知られる伝説の武将で、人々を苦しめた大ムカデを退治した逸話や、竜宮へ招待され、財宝を得たという話など多くの逸話に彩られた人物でした。そんな秀郷ですが、将門討伐の頃は、かなり御歳を召されていたようで、歴戦の老将という立場だったようです。肘の激痛も歴戦の中で痛めたものだったのでしょう。)

藤原秀郷

肘の痛みで途方に暮れていた秀郷ですが、その晩、眠りに就こうとしたところ枕元に薬師如来が立っていることに気づきました。

薬師如来は秀郷に、「この先に私が安置されているお堂がある。祈願すればその痛みはみるまに治るだろう。 」と告げました。 (お堂は貞崇の建てたお堂 )

秀郷は、すがる思いでお堂を探しあて、本尊に祈願しました。するとたちまち肘の激痛が治まってしまいました。

薬師如来の不思議な霊力に驚いた秀郷は、 「将門を無事に討伐できた暁には、このお堂を立派な寺院にいたしましょう。」と誓いました。


その後、怪我が全快した秀郷は、下野で将門軍を破り、下総国猿島にて、ついに将門を討ちとりました。

関東一円に強大な勢力をもった将門を打ち破ることが出来たのは、薬師如来の霊力の賜物であったと確信した秀郷は、誓い通り、柏木のお堂を立派な寺院に建て直し、圓照寺と号しました。(940~941年頃)


ここまでが、圓照寺誕生までの話となります。歴史的な名僧、行基の彫った木彫りの薬師如来の霊力がいかに強力であるかがわかるエピソードですね。その後、戦火の中で焼失を繰り返した圓照寺ですが、ご本尊の薬師如来像だけは、太平洋戦争による大火災の際も焼けずに残ったと伝わっており、現在も圓照寺本堂の奥で私たちを守ってくださっています。